今回は、『新・祈りのみち』の「自律のことば」より、「簡素に生きる」について考えてみたいと思います。
簡素に生きる
想いにおいて 言葉において 行いにおいて
時と場のうちに 自らの求めるものを知り
絶えず信ずるものをこそ求める自他を分かつことなく 欺くことなく
共にふり返り神の理を自らの身体として
努力と祈りとを日々の友に人々の眼となり 口となり 手足となることを
『生命の余白に』(高橋佳子著)の中に、このような言葉があります。
生きることには、人生には、選択というものが生じます。私たちは生きることに選択を余儀なくされます。一瞬一瞬何かを選び取り、何かを残して生きなければなりません。……
ひとつの選択がすべてを満たすものではないことを私たちは知っています。しばしば相反し、対立することさえあることも知っています。やはり選ぶことが何ものかを捨て去るかも知れぬことを見過ごすことはできないのです。それ故にこそ、ひとつひとつの選択の貴さを、一瞬一瞬の時の重さを想います。それ故にこそ私たちは尚一層自らの人生がより多くのものを拾い上げ、受け入れ、繋ぎ留めてゆくものとなることを願うのです。(『生命の余白に』より)
何かを選ぶことは、何かを捨てること。
確かに、1つを選択すれば、同時に他の無数の選択肢を選ぶことはできません。
しかし、だからこそ、「より多くのものを拾い上げ、受け入れ、繋ぎ留めてゆく」ことが大切だと著者は語ります。
私の知人で、若い頃、音楽家になろうと志していたものの、事情があって断念し、一般企業に就職した人がいます。それでも、その人はその後、会社員生活を送りながら、職業として選ぶことができなかった音楽を捨てることなく、様々な形で音楽に関わり、音楽を介して人生や人間関係を豊かにしています。そういう生き方も、「繋ぎ留める」ということなのかもしれません。
さらに、このように記されています。
より本質的に、より本来的に生きよと自らに語り続けること。自らの本来の在り方を清く強く生き続け、求めて止まぬこと。理のごとく、自他を分かつことなく自他を欺くことなく、自らを、共に在る人々にとってのより多くをもたらす眼となり口となり手足とすることに力を惜しまぬこと。自らが願いとするものに向けて、生きることのすべてを研ぎ澄まし収斂させてゆくことです。その本来の姿にあらゆるものが捨て去られることなく拾い上げられ繋ぎ留められ、ふさわしき場所を得て調和を保つ在り方。そこに向かう簡素な生き方を想います。
(同書)
「簡素に生きる」とは、単にシンプルに、質素に生きるということではない。
それは、人々により多くをもたらすことができる自分になること。自らの願いに向かって、あらゆるものを拾い上げ、繋ぎ留めてゆくこと──。
何と力強く、豊かな生き方でしょうか。
今まで「簡素に生きる」ことに抱いていた先入観やイメージが、ことごとく砕かれる想いがします。
ちなみに、繋ぎとめる生き方について、著者はこのようにも語っています。
魂の営みにおいては、私たちは部分部分を繋ぎとめ、断片・部分であることを超えることが可能です。感動するときは真の芸術家のように感動し、考えるときには真の科学者や哲学やのように考え、苦しむ人を介抱するときや見守るときは真の医師や看護婦のようにふるまう魂となれるからです。
(『人間のまなざし 正精進・心に風を起こす』より)
そして、『生命の余白に』では、簡素に生きるための大切な心構えが示されています。
人生に迷いの生ずることは少なくありません。そのとき、最後まで捨て去ることのできぬものを選び取ることです。何のための現在であろうか、何のための時間(とき)であろうか、そう問い続けることでしょう。
今すぐにもこの人生を立ち去ってゆくことのできる者のごとく、絶えず想いと言葉と行いを連ねて生きること。
顧みて悔いなきこれからの人生を築くことを想います。(『生命の余白に』より)
(編集部N)
『ゴールデンパス──絶体絶命の中に開かれる奇跡の道』(高橋佳子・著)
四六判並製 定価 1,980円(税込)