前回に続いて、『新・祈りのみち』の「自律のことば」より、「強く生きる」とはどんな生き方なのか、尋ねてみたいと思います。
強く生きる
想いにおいて 言葉において 行いにおいて
怒り 謗り 妬み 恨み 僻み
傲慢 欺瞞 疑念 愚痴 怠惰これら人として本然に生くる道を阻むものを
自らのうちより退けるに
雄々しく 逞しく 立ち向かうこと
『生命の余白に』(高橋佳子著、三宝出版)には、以下のような言葉があります。
怒り、謗り、妬み、恨み、僻み、傲慢、欺瞞、疑念、愚痴、怠惰。これら私たちが本然に生きることを阻むものを判っていながら生じさせてしまいます。自ら苦悩の種子を蒔いてしまう傾きがあるのです。
偏りのある視座が生み出す信念は、偏りをそのまま引き継ぎます。自己保存の想いが足ることを知らぬ欲望と結んで、悪しき習慣は次々に流れを肥やしてゆきます。そして、その様々の傾きは日々強化されていると言えるでしょう。
自らの生き方をより本然へと導くために、私たちはまず悪しき流れをとどめなければなりません。自らの人生の基盤を顧みて、そこに根づいたものの見方や考え方、価値観をひとつひとつ根気よく見取ってゆくことです。あたかも本性のように深く根づいてしまった習慣に対して、それをもう一度確かめてゆくのです。その強い流れの力に屈することなく幾度でも立ち向かう勇気と意志の力を保つことを想います。(『生命の余白に』より)
本性のように深く根づいてしまった悪しき習慣──。振り返れば、自分が気づいているものは一部で、まだ気づくこともできない「悪しき習慣」が自らの内に巣くっているに違いありません。
しかも、「その傾きは日々強化されている」! 考えてみると、恐ろしいことですね。
でも、だからこそ、「その強い流れの力に屈することなく立ち向かう勇気と意志の力を保つこと」──すなわち、強く生きることが必要なのだと思います。
さらに続けて、このように書かれています。
私たちは自分自身について、そして同様に人間と人生について余りにも無知のままに生きてきてしまったのです。今もなお、我ならざるものを我と見なし、自らを飾るものをただ求めて生きているかも知れません。その自己に深く沈潜して自己を知り、本然より偏った自らの生き方をとどめる営みにこそ、何よりも揺るがぬ心を保つこと、それが強く生きるということです。……
毎日に嘆くこと怒ることは多くあるかも知れません。そのとき人間を迷わせ、苦しませ、悲しませるとらわれにこそ、純粋の怒りをもって対することです。(同書)
本然より偏った自らの生き方をとどめる営みにこそ、何よりも揺るがぬ心を保つこと、それが強く生きるということ──。
本当の「強さ」とは、他に対して影響を与えたり、支配したりすることではなく、何よりも自分自身の心の傾き、偏った置き方を深く見つめ、それをとどめること、なのですね。
そして、「純粋の怒り」。
『新・祈りのみち』の「怒りが湧き上がるとき」の言葉が思い起こされます。
切なさを伴う「痛み」を負った怒り。……
決して自他を区切って相手を否定するのではない。相手を非難するためではない。自他を一如として見た「私たち」への怒り。畏敬とともにある畏敬ゆえの怒り。……
真実なものに、ひたすらつながってゆくような怒り。透明に、透明に、向かってゆく魂の直截なはたらき。奉仕する怒り。それはもう、単に怒りとは呼べぬ、まっすぐにされた意志。(『新・祈りのみち』より)
『新・祈りのみち』では、その事例として、イエスの姿が記されています。
エルサレムの神殿で商売をしていた人たちの棚や腰掛けをひっくり返し、『わたしの家は、すべての人々のための祈りの家と呼ばれる』と聖書に書かれているではないか。それなのに、おまえたちはそれを強盗の巣にしてしまった」と言って、彼らを追い出したイエス──。聖なる場所を欲望の場所にしてしまったことを見過ごせず、切なさと悲しみと痛みに満ちた「純粋の怒り」そのものになったイエスの姿が彷彿とします。
それは、凡人を超えた高い境地のように感じられますが、私たちも、日々生じる「怒り」を、少しでも「純粋の怒り」に昇華してゆくことができるように努めてゆきたいものです。
(編集部N)
『ゴールデンパス──絶体絶命の中に開かれる奇跡の道』(高橋佳子・著)
四六判並製 定価 1,980円(税込)