ブログ#44で、『新・祈りのみち』の中の「自律のことば」をご紹介しました(→コチラ)。
今回は、そこに込められたいのちを、『生命の余白に』(高橋佳子著、三宝出版)という本から、もう少しお伝えしたいと思います。
「自律のことば」は、「清く生きる」「強く生きる」「簡素に生きる」「慈愛に生きる」の4つのパートから構成されています。
まず、「清く生きる」について──。
清く生きる
想いにおいて 言葉において 行いにおいて
心の深みに微笑みを保ち
温かな言葉をのべ伝う
誉れを求めることなく ひたむきに愛を尽くす心を開き
あらゆる存在を受け入れて
その生命に敬いと慈しみと感謝を
『生命の余白に』の中に、こんな言葉があります。
自然の営み。
それは倦まず弛まず、また気負うこともなく真実を形造っているのです。その姿は絶えず静謐な響きを湛え、透明の真摯さに満ちています。巌に聞く湧水の音、青い空に輝く緑葉、漆黒の夜の星々のきらめき、雲間よりもれ下る光の束、大地を潤す銀の粒など。しかしそれらばかりでなく、かき曇る空の暗さにも、土砂を含んだ濁流にも、野辺に佇む枯木にも、いたるところに透明の真摯さは満ちています。(『生命の余白に』より)
透明の真摯さ──。
何とも魅力的な言葉です。
そのまなざしで自然の姿を見つめると、心の底まで洗われるような透明なエネルギーが伝わってくるのを感じます。
自然の諸相に自らの姿を映すとき、生きることの貴さ、生きることの深さを想います。自然が厳しさと優しさを共に保って、淡々と理(ことわり)の上に生命の潮流を形造るように、清く生きるとは自然の理の上に自らの人生を築くことでしょう。それは何よりも私たち一人一人が自らの本然の姿に立ち還るということです。本来の場所を見いだし、本来の在り方を見いだして、そのように生きることに、自然の示す透明の真摯さをもって向かい続けるということでしょう。
(同書)
自然を自分と切り離された対象と見るのではなく、自然の姿に、自分の生きる姿を映し、重ねてみるのですね。
そして、「清く生きる」とは、「自然の理の上に自らの人生を築くこと」「一人一人が自らの本然の姿に立ち還ること」と書かれています。
「透明の真摯さ」に満ちている自然の姿と、日々の出来事に一喜一憂している自分の姿──。あまりに対照的ですが、それでも、自然の営みに照らして自らの生き方を見つめ直すことができるのは、深い癒やしであり、希望ではないか、と思います。
さらに続けて、このような一節があります。
星雲から原子に至るまで宇宙に散在するものどものつくる世界、地球の動植鉱物のつくる様々の世界は生成・変化・均衡のうちに調和を保っています。
その一切の存在に対して、宇宙自然に対して、絶えざる謝念をもって生きること。祈りを抱いて生きること。それが、清く生きるということでしょう。見返りを知らぬ謝念。存在そのものに対する共感と敬いの念です。(同書)
宇宙自然の一切の存在に対して、絶えざる謝念、祈りを抱いて生きる。
存在そのものに対する共感と敬いの念。
それが「清く生きる」ということ──。
著者はさらにこのようにも語っています。
悲哀あるところには限りない包容を、不信あるところには揺らぐことのない信を、憎悪あるところには広く深い理解を、虚偽あるところには色褪せることのない誠実を、そして人あるところに、遍く生きとし生けるものあるところに、尽きることのない愛を絶えず運ぶものとなることです。幾度つまずき転んだとしても諦めることなく、再び立ち上がり、透明の真摯さをもって清く生きるのです。
(同書)
いかがでしょうか。
これらの「ことば」の数々に触れるとき、いつも清く生きることへの限りない憧れを感じずにはいられません。そのように生きられたら、どんなに素晴らしいでしょうか。
ここで引用させていただいたのは、「清く生きる」と題した文章のごく一部ですが、「清く生きる」ということが、どれほど透明で、深い生き方なのか──少しでも感じ取っていただければうれしく思います。
(編集部N)
『ゴールデンパス──絶体絶命の中に開かれる奇跡の道』(高橋佳子・著)
四六判並製 定価 1,980円(税込)