「読書百遍意自ら通ず」。
難しくてわからない書物も、何度も繰り返して読めば、おのずと理解できるようになるという意味のことわざです。
確かに、1度読んで意味がわからないところも、時間をおいて何度か読み直すと、「ああ、そういうことか」と腑に落ちることがあります。
しかし、ただ闇雲に何度も読んでも、理解が深まるとは限りません。
とりわけ、これまでの通念や常識を超えた「魂の学」の本を読むときは、注意が必要です。
「わかること」には、様々な側面があります。たとえば、言葉としての意味がわかる概念的理解、共感して受けとめる心情的理解、うまく言えないけれど感覚的にわかる直感的理解、そして、自らの体験によって身に沁みてわかる体験的理解……等々。そして、それら1つ1つに理解の段階、深さがあります。
「わかった」と言っても、どのようにわかったのかは、よく点検してみないとわからないのですね。
たとえば、『ゴールデンパス』のある部分を読んで、「わかった」と思ったとき、「私の理解は、果たしてどのような理解だろうか?」と問いかけてみると、「わかったと思っていたけれど、実は言葉の表面をなでていただけだった」「自分の血肉にはなっていない」「本当にわかったとはとても言えない……」といったように、自らの理解の浅さ、不完全さに気づくことがあります。
文章の意味、概念的な意味合いがわかるというのは、ほんの入口に過ぎません。
理解を深めてゆくためには、「では、このことは、自らの現実と人生ではどのようになっているのか」──を確かめ、深めてゆくプロセスをたどってゆく必要があるのではないでしょうか。
そのために、私自身もときどき実践している、ささやかな読み方の工夫を1つご紹介させていただきます。
それは、本の中に、「私たちは──」「人は──」「誰もが──」といった文章があったら、その主語を自分の名前に置き換えてみることです。
たとえば、「カオスは、私たちと別々に存在しているのではなく、カオスの中に私たちの心が入り込んでいる。カオスは、私たちと一体になっているのです」(『ゴールデンパス』P85)という文章なら、「カオスは、〇〇さん(自分の名前)と別々に存在しているのではなく、カオスの中に〇〇さんの心が入り込んでいる。カオスは、〇〇さんと一体になっているのです」というように、読み替えてみます。
つまり、本に書かれている言葉を、著者が直接、私に語りかけてくださっている言葉として、あるいは、著者から私自身に届いたお手紙として、ダイレクトに受け取ってみるのです。
すると、今まで読んでいた感覚と少し違って、その言葉が、自分の現実、自分の人生にグッと入ってくるようなリアルな感覚が呼び覚まされるのではないでしょうか。
その言葉を手がかりにして自分の現実を掘り下げ、その言葉によって自分の人生を隈取り、捉え直してゆく。特に心に響く文章があれば、それをノートなどに書き写して(自分の名前を入れて)、何度も見直し、心に刻印する時間を過ごしてみる──。
ときには、そんな読み方をしてみるのもよいのではないかと思います。
GLAの「ゴールデンパス『一日一葉』特別セミナー」を受講した方も多くいらっしゃると思います。セミナーは6月27日で修了しましたが、ゴールデンパスの旅は、生きている限りどこまでも続きます。これで終わりではなく、これからも、『ゴールデンパス』と自らの人生が切っても切れないほどの関係になるまで、読み深めてゆきたいものですね。
(編集部N)
『ゴールデンパス──絶体絶命の中に開かれる奇跡の道』(高橋佳子・著)
四六判並製 定価 1,980円(税込)