かつて科学者にとって、宗教と科学は1つのものでした。
地動説を唱えたヨハネス・ケプラー(1571~1630)は、こう言っています。
「科学の最終目的は、人間を神に近づかせることである」
「天文学者は自然の聖書をもとに、神に仕える牧師である」
ケプラーの著作『宇宙の調和』は、祈りで始まり、祈りで終わっています。
また、万有引力を発見したアイザック・ニュートン(1642~1727)は、「美しい天体は、知性を備えた強力な実力者の意図と、統一的な制御があって初めて存在するようになったのである。……神は永遠であり、無限なお方だ」と述べています。
相対性理論で物理学に革命を起こしたアルバート・アインシュタイン(1879~1955)は、「宗教なき科学は不完全であり、科学なき宗教は盲目である」と語りました。
彼は、自らの幼少期のことをこのように回想しています。「4歳か5歳のとき、私は奇跡を見た。父が見せてくれたコンパス(方位磁針)に、私は驚きのあまり震えた。……何がこの小さな針を動かしているのか。どうしてこの針が北の方向を知っているのか。この世界には、様々なことが隠されている」。アインシュタインが、人間を超えた大いなる存在への憧れと畏敬を抱いていたことを窺わせるエピソードです。
しかし、この時代、アインシュタインより若い世代の科学者たち――たとえば、不確定性原理を提唱したハイゼンベルク(1901~1976)や、反粒子の存在を予言したディラック(1902~1984)らは、自然法則の中に神性を見出すことに抵抗し、アインシュタインの考え方にも違和感を覚えていたようです(ディラックは後年、「改心」したようですが)。
さらに、世界的に知られる理論物理学者スティーヴン・ホーキング(1942~2018)は、このように語っています。
「私に信仰はあるのだろうか? 人はそれぞれ信じたいものを信じる自由があり、『神は存在しない』というのが一番簡単な説明だというのが私の考えだ。宇宙を作った者はいないし、私たちの運命に指図する者もいない。そこから私は、深い気づきに導かれた。おそらく天国は存在せず、死後の生もないだろう。死後の生を信じるのは希望的観測にすぎないと思う。死後の生があるという信頼できる証拠はないし、そんなものがあれば、科学について私が知る限りのことと矛盾する。人は死ねば塵に帰るのだろう」
ホーキングは、人格的な神は否定するが、自然法則そのものを神と呼ぶことに反対はしないという立場だったようですが、いずれにしても、ケプラーの時代から500年、現代を生きる私たちの内に、唯物的人間観・世界観が根深く浸透していることを改めて感じます。
しかし、コロナが世界のすべてを大きく変えてしまった今、私たちは自らの人間観・世界観を根底から見直すときなのかもしれません。
『ゴールデンパス』には、このように書かれています。
「自分は、科学的な人間観・世界観を支持しているが、今、ここで示された唯物的な生き方ほど行き過ぎてはいない」と思う方は少なくないかもしれません。
それは、多くの人が、唯物的な人間観・世界観を信奉しながら、実は無味乾燥で殺伐とした唯物主義を貫くことはできず、時によって、どこかで、物質を超える人間観・世界観に寄り添っているからではないでしょうか。
意識することもなく、その2つを切り替えている──。
そうだとしたら、そのこと自体が、もう答えを出しているということではないでしょうか。
一貫した生き方として、どちらを選ぶのか──。
それは、ゴールデンパスを求めて歩み出す今、私たちが真に問うべき選択です。
(『ゴールデンパス』P67)
(編集部N)
『ゴールデンパス──絶体絶命の中に開かれる奇跡の道』(高橋佳子・著)
四六判並製 定価 1,980円(税込)